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知覚する風景    Perceiving the Landscape 

谷内春子展        Haruko Taniuchi solo exhibition

2024.10.26sat.-11.17sun. (close mon./tue./wed.)@2kwgallery

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「知覚する風景」

 これまで私は『作庭記』を参照した〈景〉という言葉を自分自身の中でキーワードとして扱ってきました。その言葉を今あらためて自分自身の興味に照らし合わせると「見立てる」時に生まれる知覚感覚そのものに、今も共通している部分があるのではないかというふうに考えが至りました。

例えば、小さな石を大きな山として、見る・見立てることは、認識の変化、知覚の変化、感覚の行き来のようなものがダイナミックに行われており、見立てる「景」は、ものの見えのダイナミズムを、端的に表していた言葉だったかもしれないと思ったのです。

 絵と対峙するなかでは、いかに様々なことを想定し、確認し、認識しているのか、ということに興味を持っています。描くときどきに変化する状態を少しでも残すようにして描き進めているのかもしれません。そのような視覚の楽しみを表現できたらと考えています。

谷内春子​

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知覚する風景画

 風景を描けば風景画なのか。人が風景を見るとき、何を見ているのか。谷内春子の絵画は、風景に対する疑問からはじまった。谷内の絵画は一見すると山型や四角形などを描いた抽象絵画に見える。だが、これらは山や湖、田畑、鉱物など実際の風景や物を写生し、色やかたちを線や面へと抽出して岩絵具で描いた絵画なのだ。

 谷内の絵画の根底にあるのは、平安時代に書かれたとされる日本最古の庭園書『作庭記』から見出した「景」という造形原理である。庭は石や木、苔など自然物で構成されるが、ありのままの自然ではない。枯山水では、方形のなかに石を山に見立て、白砂で水の流れをあらわすなど、現実とは異なる素材や縮尺、思想、建築や周囲との関係のなかで自然の「風景」が再構成される。

 『作庭記』によれば、庭作りは「石を立てる」ことからはじまる。谷内の絵画では庭園における「見立て」を取り入れ、石を立てるように色を置き、風景を伸縮し、絵画空間と展示空間を行き来する作庭的な絵画を制作してきた。

 2022年頃からは三角形や四角形のプリズムがモチーフに選ばれる。プリズムとは、光を分散、屈折、反射させて「虹を立てる」透明なガラスや水晶である。谷内は光の分散や屈折などの光学現象を鮮やかな色彩や幾何学的なかたちに還元し、抽象的、浮遊感のある抽象風景画へと展開させた。さらに、支持体に半透明の絹やテトロン紗を用い、借景のように現実の展示空間を取り込む試みをしてきた。
 では谷内の絵画はなぜ「風景」ではなく、「景」を主題に描くのだろうか。それは、現実に即した特定の「風景」を再現的に描くのではなく、庭のように多義的な見え方をもつ「光景」や「景色」を組み立てるためである。

 庭に限らず風景の特徴とは季節や視点によって、見え方が変わることにある。谷内がこれまで描いてきた山や川、鉱物、虹、光などはかたちをとどめない移ろう光景だった。谷内はこうした瞬間的な光景や感覚を石の結晶・粒子である岩絵具で描くのだ。

 風景とは瞬間であり、断片的で儚い(ephemeral)ものである。エフェメラルとは一時的やつかの間、儚いなどを意味し、ギリシャ語で1日しか存在しえないものを指す。言うまでもなく、日本画は季節の変化や日常の機微などエフェメラルな感覚を表現してきた。谷内の絵画の根幹にも日本画のエフェメラルな風景観が流れているだろう。人が知覚する風景とは一時的でその瞬間に消えてしまう。プリズムによって「光(虹)を立てる」ことで生まれる絵画を前に、私たちは何を知覚するだろうか。庭を見るように、絵画を眺めたい。

平田剛志 (美術批評)

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